こんにちは。総合トレーニング参加者の「さくら猫」です。
カウンセリングって、心の悩みを聴くのが前提。
では、クライエントさんが「身体の痛み」を話したら、支援者のあなたはどうしますか?
この記事では、ささいなように見えて、実は奥が深い「身体の痛み」についてお伝えしますね。
コンテンツ
体調のことは主治医が訊くもの?
精神科勤務日の仕事が終わったあと、後輩心理士と話していたときのこと。
「初回のカウンセリングで患者さんにどんなことを尋ねるか?」の話になり、
思わず「えっ、それ訊かないの?」と驚いたことがありました。
それは身体の不調。
特に、頭痛、腹痛、腰痛、肩こりなどの痛み。
かくいう私も、ソマティック(身体志向)なアプローチを学ぶまで、
積極的にクライエントさんの体調について訊いていませんでした。
今思うと、とっても残念なことをしていたなと後悔。
精神科の場合、まずクライエントさんは診察で主治医と話します。
そのあとカウンセリングでは心理士と話すので、質問の内容が結構かぶっているものです。
「最近、調子はどうですか?」
「眠れていますか?」
「ごはん食べれていますか?」
という質問を繰り返さない配慮をしていました。
もっと言うなら、「眠れません」などと言われたところで、私が薬を処方できるわけでもないので、
「体調のことは主治医が訊くもの」と分業していたのでした。
心理士が体調について訊く意味
では薬の処方をしない心理士が、体調について質問することに意味はあるのでしょうか?
新米カウンセラーだった頃に受けたスーパービジョンで、それは明らかに。
10年以上の偏頭痛歴があるクライエントさんのことを相談。
「初回面接では睡眠、食欲、頭痛や腹痛などの痛みは必ず訊くこと!」と
スーパーバイザーの先生からの指摘。
ぽかんとしている私に、
「このクライエントは、今まで抑圧してきたものを身体でしか出せなくなっているんです」と説明。
さらに「これをどれだけ意識化できるかがこの人のテーマ」というアドバイス。
はぁ、そういうことだったのかぁ・・・。
カウンセリングで語られる内容は、いつ頭痛がするのか、どんな感じで痛むのか、
どこにいると痛むのかなど、とにかく訴えの連続。
「それを私に言われても・・・」と困惑するばかりでした。
しかし、抑圧してきた感情が身体症状として現れていることに、
クライエントさんが意識できるような問いかけが必要だったのです。
それが分かっていないから、「次回の頭痛外来の受診日はいつですか?」なんて、
まったくとんちんかんなことを訊いていたのです。
「体調はいかがですか?」と「どこか痛いところはありますか?」の違い
それ以来、クライエントさんに体調を尋ねるようになりました。
そして新たな気づきを得ることに。
「体調はいかがですか?」と尋ねると、たいてい「普通です」「大丈夫です」と返ってくる。
続けて「どこか痛いところはありますか?」と質問すると、
「頭痛がします」「お腹の調子が悪いです」との返答。
ん? 痛みがあるのに大丈夫ってこと?
さらに訊いていくと、クライエントさんにとって痛みがあるのは普通のこと。
症状が軽いときは「たいしたことない」「大丈夫」と片付けているってことに気付きました。
「体調はいかがですか?」だけの質問だったら、どこか痛みがあってもわざわざ言ってくれないのです。
そもそもクライエントさんにとってカウンセリングは「心の痛み」について話す場所。
「身体の痛み」について話す場所とは認識されていないことが一般的。
かつての私がそうだったように、心理士の側もソマティックなアプローチを知らないと、
クライエントさんと同じような捉え方をしてしまう。
だから双方が「身体の痛み」を軽く見ていたら、話題にあがっても表面的な会話で終わってしまうのです。
「体調のことを訊く」と言っても、訊き方にも注意が必要なんですね。
このことを冒頭の後輩心理士に話したら、慌ててメモを取り始めたのでした。
「身体の痛み」を訊くようになってから起きた変化
今では初回面接で「身体の痛み」について、質問をするのが当たり前になった私。
ある日、生活に支障が出るほどあごに痛みを抱えているクライエントさんに出会いました。
ここではプライバシーに配慮して、内容を損なわない程度に修正してお伝えします。
そのクライエントさんは吹奏楽部に所属する大学生、Aさん。
「もうすぐ4年生」ってときに、あごが痛むようになりました。
病院にも行きましたが、結果は異常なし。
Aさんは「あごの痛み」よりも、家族や友人関係の「心の痛み」を話しました。
以前の私だったら、「部活の練習ができなくて困りましたね」と言っていたでしょう。
でもこのときは積極的に痛みについて尋ねました。
「どんなときに痛いですか?」
「片方だけですか? 両方とも?」
「大学にいるときと家にいるときで痛みは違いますか?」
「痛くないのはどんなときですか?」
分かったのは、練習中以外で痛くなるのは「家にいるとき」が多いってこと。
痛みの話題があまり出ないときも、
「この痛みは何を意味しているんだろう?」と思いをはせていました。
忍耐強く向き合っていると、ある展開があったのです。
痛みはリソースを求めていた?
ある時、Aさんは打ち明けてくれました。
実は、Aさんの家では暴力が日常茶飯事だったのです。
家の問題はAさんがどうこうできるものではありません。
私はどうしたものかと頭を悩ませました。
家族で味方となってくれる人、理解者となってくれる人はいないのだろうか?
Aさんの心の荷物を少しでも軽くできないかと検討しました。
人はどんなに苦しくてつらくても、
「自分を支えてくれる存在」というリソース(資源)があれば、乗り切れることもあります。
家庭内暴力は家族の誰もが知っていながら、触れられないタブー。
なので、味方や理解者というリソースを作ることは、タブーを破ることを意味していました。
でも、Aさんはこの提案に同意。
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そして、翌月。
家族に来てもらいました。
家庭内暴力のことがオープンになりました。
ようやく「家族の悩み」を共有できたのです。
物理的な家庭環境そのものは何も変わってはいません。
でもAさんは家の中で、小さいながらも安心感の芽を育みました。
自然に「あごの痛み」も無くなっていました。
Aさんは自分の将来の見通しが持てるようにもなりました。
そして、再び好きな場所で音楽を奏でる日々を送っています。
「身体の痛み」が伝えているもの
改めてAさんの「あごの痛み」について考えてみました。
すると人格を持った存在がAさんの背後にいるような感覚が・・・。
吹奏楽部のAさんにとって、「あごの痛み」は致命的なこと。
ほかの部位ではなく、演奏に支障が出る「あご」だったのです。
タブーとなっていた家族の問題を一人で抱えていたAさん。
限界を超えていたのです。
痛みはAさんを代弁して「どうにかして!」とSOSを発信していたのでは?
こんなストーリーが見えてくるのです。
痛みはたくさんのことを伝えようとしています。
だからその痛みに耳を傾けて、バレーボールのリベロのようにひろってつないでいく。
すると自然に「心の痛み」まで聞こえてくるような気がするのです・・・